移動型インフィル社会 1-1
色が想定したものとは違いますがご容赦ください
ぼくのけんちくは なに をやるの?②
前回の続き…
あくまで建築にも建築空間という特異な言葉がありますが、建築家がその破壊力のある言葉を一般人に使うとぐうの音も言えない空気になり、最終的には空間計画に関しては建築家が実権を握ることになると思うのです。
逆に言えばそれだけの実権・責任・効果を持ち合わせている建築家は弱いのは異常です…。
建築を含んだデザイン軽視の風潮
デザインと住宅の重宝度合を若者(20~30歳台)世代が軽蔑しているのが肌で感じられるようになってきました。デザイン手法の手軽さが飛躍的に上がり、電子情報社会の癒着体質が生んだ「これ俺でもできんじゃね?」という一大思想が背景にあります。
デザイン的建築に興味がありながらも、デザイナーズマンションが高価で住むのを止め、結局一般的なデザインのかけらもないマンションに住む人が増えてきた人がいい例です。それはDIYというムーブメントです。
近年のDIYがなぜここまで市場成長したかというと『新築マンション等におけるデザインの明快さに飽きを覚えやすくなったから』です。
1人暮らし世帯が増え始め、1住居に対する家庭内人数もついに2人/件を切り、独身世帯が急増している背景にデザインの存在を認識しにくい空間に滞在し続けると、お手頃で話題性のある方法でカスタマイズしたくなるのは当然です。
『個人単位の建築』の意味の変化
そのような多種多様な背景が現在の住宅意識を生み、建築家の世間的地位が上がらないのもあると思います。しかし個人的な感想を言えば、ユーザービリティや体験的生活が重視された今、東京R不動産のような思想も注目されていることから、マンション改革が必要だと思います。
しかしマンションの能力的には住人のDIY、カスタム意識を最大限引き出せないのが現状…。引き出す方法は何なのでしょうか?ある意味わたしの卒業設計の最終的な目標意識はそこにあると思います。
プロフェッショナルに任せていい生活構造とユーザー主体の生活構造の線引きをしなくてはいけない時代に入ってきたかもしれません。
ぼくのけんちくは なに をやるの?①
おーーー久しぶりです。
更新できる精神的な環境下ではなかったので更新を止めていました。すみません…。
最近はそろそろ人生の分岐点になりそうな時期が近づいてきていて、面白くなってきている今日このごろ。
話を戻しますが私のけんちくはどうなんでしょう?
今現在の建築家はどうなんでしょうか?現建築家における存在はあまりにも世間から弱い…。そこには建築家の藤村龍二や嶋田洋平が唱えている、現在のビジネスモデル・システムから引き起こされる利益還元率の低さがある。
建築ビジネスの再構築が必要なのは明らかにある。まず第一に竣工後にその後の利益が貰えないこと。例えば竣工後に住みor使用し続けて不備が見つかったら賠償なり、なんなり負債を負うことになるのが建築家である。しかし後に安定した生活を送れる元となる建築家に対して利益がもたらされているでしょうか?
住居空間はその後に収益が発生が発生しないため良いとしても、ビジネスを行う建築に対して竣工後に建築家にも利益がもたらされないのはおかしくないでしょうか?
アノニマスの話にもなるんですが、建築家に対して作家性を求める需要と求めていない需要の双方がある中で、非作家的建築家は街づくりに対してコミットした建築を作り出します。それがある意味潤栄な利益(成功した場合にありますが)が働き、永続的なビジネスサイクルに組み込まれているはずなのです。
それは自分の作家性を抑える欲求に打ち勝ち、質の高いアグレッシブな取り組みで外部の街づくりにも反映させているのにもかかわらず大衆・官僚等の価値観があまりにも低い…。
話がよく分からない方向へ行ってしまいましたが、何が言いたいかというと建築家とビジネスモデルとの結びつきのイメージが余りにも外部からの印象が薄い。
建築界隈でもデザイン思考や建築プロポーションの主要論から始まる人間に及ぼす作用等の人間操作的建築マンは社会ビジネスモデルをないがしろする傾向があります。
外部からも建築やデザインにおける社会との連動制が必要になりつつあると認識してほしいというのがあります。市場派という存在の認知というところでしょうか?(建築デザイン系統のお金儲けの認可(?)、職的シンボルからの脱出、拡張)
ちょっと長くなるのでここで終わります…。続きは三日後ぐらいに出します。
18歳で製作した Utopia/Dystopia → 20歳が今思う Dystopia
この作品は今のトップ画にもなっていますが、当時私が18歳の時に作成したコンペディション(公募による建築設計の競技会のことです)作品[解像度83px]です。上の作品少し見にくいので解像度を上げたプレゼン[解像度133px]を下に貼り付けておきます。
当時18歳の私は東日本大震災時に起きた報道の印象が拭えませんでした。東日本大震災の時、学校の入学者説明会の時で、震災の緊急アラートが会場中鳴り響いたことは鮮明に覚えています。少なからずその東日本大震災の影響を受けたのがこの作品です。
(ちなみに審査員の方がおっしゃていたが、震災関連の作品は前年度に比べて激減したらしいです)
内容はプレゼンを見てほしいのですが、伝えたかった内容としては阪神淡路大震災や東日本大震災で死因としてあった家具の倒壊による、圧死等の危険性を表現したかったのです。なので文中では「家具の倒壊」を二次災害・三次災害として表現し、我々が引き起す人的災害であることを強調しました。
そこでプレゼンには、災害のリスクが建造物には無いように設定し(津波でも沈まない)、我々の家具の高位置化・私利的増加を批判する作品を作りました。(一種のminimalistの肯定)
建築の作品としては全くと言って意味がない作品ですけどね(笑)
なぜなら、これは何か新しい解決案を提案するわけでも、人間にプラスの要素を与えているわけでもないですからね。ましてや、住居が『沈む』という死に直結する『Dystopia』(ユートピアの反対の世界)を提案するのは建築の理念に反するものです。
しかし、もう少し読み込むと住居の規則に従えば、災害から100%身を守れる『Utopia』でもあることが分かります。ある意味二面性を持っていますね。
しかし、この作品以来建築の世界では受けないなということが分かり、Dystopiaを表現するのは止めました。
今回改めて20歳の自分がプレゼンを見て、 Utopia/Dystopia の中の Dystopia がだいぶ先行して印象を受ける、と思いました。それほど Dystopia の伝える強さが巨大であることに気が付きました。
内容としては Utopia/Dystopia の二面性があると思っていましたが、実際のところ人間の時間経過による災害意識の低下により、結局『沈む』気がします。つまりどう転んでも『Dystopia』ということです(笑)
話は変わりますが作品の性質上、ストーリー形式にする必要はなかったと当時は思いました。しかし、ストーリー形式は見る者を当事者にし、災害や生活に対して再考する機会を与えるための適した手段であることが分かります。
この作品で再考した結果、『問題をデザインする』『Dystopia の表現の可能性』に気づくことが出来ました。(一応この話はこの卒業設計にもつながっていきます)
何かタメになるプレゼンではないですが、何か感じ取っていただければ幸いです。
卒業設計のおはなし③
学校が始まり長期休暇→新学期になると生活スタイルが変わり、休み中やっていたことも中々できませんね…。いけないいけない。
さて今回は②の続きで、さらに卒業設計の案を考察していきます。
前回話した、地域別にその地域特徴が反映されるようなスケルトン(骨組)を建築家が建て、個人のニーズに応えながら地域属性を反映させた容器が完成する。それにより現代のアパートやマンションの設計プロセスが再考されるのではないか?と考えました。
では実際にスケルトンを各地域に設計・施工するとなるとどういった変異が表れるのでしょうか?
(図1 都市部及び郊外におけるSPBに対応した場合の地域別特徴)
このように、都市部・郊外区域それぞれ建設すると以上の変異が表れると考えられます。以上の差異だけでも設計上、反映のされ方に顕著に違いが表れると思います。
話は変わりまして、そのスケルトンにはめ込む住居(SPB)の話をします。前回の話で『その後の日本は……』といった『what if ?』を書きました。その理想を実際にするとしたとき、どういう形で販売及びSNSに拡散されていくかを考えた詳細の図です。
(図2 SPBのAmazon販売形態の理想像)
(図3 カスタマSPBとSNSの拡散性)
(図4 PSPBの販売形態)
少しずつ現実味を帯びてきたでしょか?おそらく近い将来的に実現するであろうことなのだと、私自身考察・調査しながらスマートフォンの普及の実態を見て、身に染みて思います。
卒業設計シリーズの次回はこの設計の次段階をお伝えたいしたいと思います。
この段階でのご意見もお待ちしております。
卒業設計のおはなし②
久しぶりに卒業設計のお話です。
さて「Amazonで家を売る」と言いましたが、お題をこれにした理由と原理をもう少し掘り下げたいと思います。
私は建築家と世間の意識の乖離が一向に直らないことに違和感を覚えています。
どういうことかというと、現在多くの公共的建築が日本各地にあり、唯一無二の建築物により地域の社会的活性化・結果的に観光地になることで経済的活性化する可能性を秘めた、ある意味強大な力を持っています。
それにより建築家というプロフェッショナルな方に依頼して(近年は自発的に建築する巨匠も多いですが…)巨大建築を建てています。しかし、住宅ではどうでしょう?住宅は一般的にマイホームが欲しいとなると、コスト・住み易さ・短期工期が重視され、ハウスメーカーが選択されることが多いです。
建築家というツールはそこまで魅力が無いように世間の人たちには映っているのでしょうか?最適解とまでは言えませんが、住む人の個性、生活パターンまで組み込んで建築家は設計し、住み易さを追求したプロフェッショナルです。
しかし、コスト面からみても手が届かない存在と認定されたら、もうお手上げです。近い将来、マイホームは低中所得層から建築家という選択肢が消えてしまう様な気がします。実際小規模のカスタマイズ(DIY含む)で気が済み、自分の理想の住宅に近づけることが出来るようになったため、建築家の必要性が大衆から失われているのもあるかもしれません。
しかし、50年後を見据えた建築業界と不動産の価値観が変わるシ新しいシステムをこの社会に加えたらどうなるか。まるでスマートフォンのような住宅。
[第五世代 ハードウェア+エレクトロニクス+ソフトウェア+インターネット+サービス¹]
建築家がデザイン又は一般の方が規定のなかで部屋の間取り・建築設備をカスタムできる自由度の高い1DKのボックス型住宅をAmazonというEC市場が『レビュー+中古』で売ります。
買った住宅は中銀カプセルタワーのような部屋ごと置換できるスケルトン(メタボリズム建築)にはめ込みます。
スケルトン自体はAmazon又は国(?)が管理し、建築家が地域に根付くを意識したプランの設計をします。
その後の日本は……
・引っ越しの時はその住宅をそのまま持っていき、その住宅は別地域のスケルトンにはめ込むだけ。
・普通の一軒家に住むことになったら中古としてAmazonに売り出す。
・一般の方がカスタムした住宅はブログに載せてトレンドになるかもしれない…。
・若手建築家がデザインしたボックス型住宅は一般にみられ、建築家の可能性の拡大にもなるかも。
どうでしょうか?建築家と世間の意識の乖離は直らないかもしれませんが、新しい価値観が生まれ、現在のような建築の捉え方では少なくとも変わることでしょう。
まだざっくりですが、この案の原理ですが修正し、高める価値がある。そう思ってます。(職種のジャンル問わず具体的な質問等も受け付けております!)
1:田川欣哉 渡邊康太郎 緒方壽人 (2014) 現代建築家コンセプト・シ
リーズ 18 takram design engineering | デザイン・イノベーションの
振り子 10-13.