nishigaki / nsg

建築学生から何故か布全般を扱うデザイナーになりました

18歳で製作した Utopia/Dystopia → 20歳が今思う Dystopia

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この作品は今のトップ画にもなっていますが、当時私が18歳の時に作成したコンペディション(公募による建築設計の競技会のことです)作品[解像度83px]です。上の作品少し見にくいので解像度を上げたプレゼン[解像度133px]を下に貼り付けておきます。

 

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当時18歳の私は東日本大震災時に起きた報道の印象が拭えませんでした。東日本大震災の時、学校の入学者説明会の時で、震災の緊急アラートが会場中鳴り響いたことは鮮明に覚えています。少なからずその東日本大震災の影響を受けたのがこの作品です。

(ちなみに審査員の方がおっしゃていたが、震災関連の作品は前年度に比べて激減したらしいです)

 

内容はプレゼンを見てほしいのですが、伝えたかった内容としては阪神淡路大震災東日本大震災で死因としてあった家具の倒壊による、圧死等の危険性を表現したかったのです。なので文中では「家具の倒壊」を二次災害・三次災害として表現し、我々が引き起す人的災害であることを強調しました。

 

そこでプレゼンには、災害のリスクが建造物には無いように設定し(津波でも沈まない)、我々の家具の高位置化・私利的増加を批判する作品を作りました。(一種のminimalistの肯定)

 

建築の作品としては全くと言って意味がない作品ですけどね(笑)

 

なぜなら、これは何か新しい解決案を提案するわけでも、人間にプラスの要素を与えているわけでもないですからね。ましてや、住居が『沈む』という死に直結する『Dystopia』(ユートピアの反対の世界)を提案するのは建築の理念に反するものです。

 

しかし、もう少し読み込むと住居の規則に従えば、災害から100%身を守れる『Utopia』でもあることが分かります。ある意味二面性を持っていますね。

 

しかし、この作品以来建築の世界では受けないなということが分かり、Dystopiaを表現するのは止めました。

 

今回改めて20歳の自分がプレゼンを見て、 Utopia/Dystopia の中の Dystopia がだいぶ先行して印象を受ける、と思いました。それほど Dystopia の伝える強さが巨大であることに気が付きました。

内容としては  Utopia/Dystopia の二面性があると思っていましたが、実際のところ人間の時間経過による災害意識の低下により、結局『沈む』気がします。つまりどう転んでも『Dystopia』ということです(笑)

 

話は変わりますが作品の性質上、ストーリー形式にする必要はなかったと当時は思いました。しかし、ストーリー形式は見る者を当事者にし、災害や生活に対して再考する機会を与えるための適した手段であることが分かります。

 

この作品で再考した結果、『問題をデザインする』『Dystopia の表現の可能性』に気づくことが出来ました。(一応この話はこの卒業設計にもつながっていきます)

 

何かタメになるプレゼンではないですが、何か感じ取っていただければ幸いです。