移動型インフィル社会 1-1
色が想定したものとは違いますがご容赦ください
ちょっとつぶやき...
現在編入学試験のシーズン(人よりかなり遅め)で一応ひと段落という事で軽くつぶやきます。
先程面接を某大学で受けてきて卒業設計の話も少しばかりしてきましたが、その話をすると話がこじれやすい...。
そもそも都市建築デザインだから土木や実装的建築、都市のプログラム的思考について考える場所で、結局ほかの大学がいいのでは?
という話に落ち着く...。
確かにいくら作品が優れていたとしても、根本であるその学校の教育リテラシに合わねば意味がないのよね。
土木!環境!地域コミュニティ!連携のある街づくり!
といくら言ったところでなんか浅いし、響かないんだろうなぁという感じだし、そんな顔してました。
将来設計や作品、スキルは伝えることが出来たので◎。
留年ネタも笑ってくれて◎(??)
卒業制作はようやく始動ですかね!
ぼくのけんちくは なに をやるの?②
前回の続き…
あくまで建築にも建築空間という特異な言葉がありますが、建築家がその破壊力のある言葉を一般人に使うとぐうの音も言えない空気になり、最終的には空間計画に関しては建築家が実権を握ることになると思うのです。
逆に言えばそれだけの実権・責任・効果を持ち合わせている建築家は弱いのは異常です…。
建築を含んだデザイン軽視の風潮
デザインと住宅の重宝度合を若者(20~30歳台)世代が軽蔑しているのが肌で感じられるようになってきました。デザイン手法の手軽さが飛躍的に上がり、電子情報社会の癒着体質が生んだ「これ俺でもできんじゃね?」という一大思想が背景にあります。
デザイン的建築に興味がありながらも、デザイナーズマンションが高価で住むのを止め、結局一般的なデザインのかけらもないマンションに住む人が増えてきた人がいい例です。それはDIYというムーブメントです。
近年のDIYがなぜここまで市場成長したかというと『新築マンション等におけるデザインの明快さに飽きを覚えやすくなったから』です。
1人暮らし世帯が増え始め、1住居に対する家庭内人数もついに2人/件を切り、独身世帯が急増している背景にデザインの存在を認識しにくい空間に滞在し続けると、お手頃で話題性のある方法でカスタマイズしたくなるのは当然です。
『個人単位の建築』の意味の変化
そのような多種多様な背景が現在の住宅意識を生み、建築家の世間的地位が上がらないのもあると思います。しかし個人的な感想を言えば、ユーザービリティや体験的生活が重視された今、東京R不動産のような思想も注目されていることから、マンション改革が必要だと思います。
しかしマンションの能力的には住人のDIY、カスタム意識を最大限引き出せないのが現状…。引き出す方法は何なのでしょうか?ある意味わたしの卒業設計の最終的な目標意識はそこにあると思います。
プロフェッショナルに任せていい生活構造とユーザー主体の生活構造の線引きをしなくてはいけない時代に入ってきたかもしれません。
ぼくのけんちくは なに をやるの?①
おーーー久しぶりです。
更新できる精神的な環境下ではなかったので更新を止めていました。すみません…。
最近はそろそろ人生の分岐点になりそうな時期が近づいてきていて、面白くなってきている今日このごろ。
話を戻しますが私のけんちくはどうなんでしょう?
今現在の建築家はどうなんでしょうか?現建築家における存在はあまりにも世間から弱い…。そこには建築家の藤村龍二や嶋田洋平が唱えている、現在のビジネスモデル・システムから引き起こされる利益還元率の低さがある。
建築ビジネスの再構築が必要なのは明らかにある。まず第一に竣工後にその後の利益が貰えないこと。例えば竣工後に住みor使用し続けて不備が見つかったら賠償なり、なんなり負債を負うことになるのが建築家である。しかし後に安定した生活を送れる元となる建築家に対して利益がもたらされているでしょうか?
住居空間はその後に収益が発生が発生しないため良いとしても、ビジネスを行う建築に対して竣工後に建築家にも利益がもたらされないのはおかしくないでしょうか?
アノニマスの話にもなるんですが、建築家に対して作家性を求める需要と求めていない需要の双方がある中で、非作家的建築家は街づくりに対してコミットした建築を作り出します。それがある意味潤栄な利益(成功した場合にありますが)が働き、永続的なビジネスサイクルに組み込まれているはずなのです。
それは自分の作家性を抑える欲求に打ち勝ち、質の高いアグレッシブな取り組みで外部の街づくりにも反映させているのにもかかわらず大衆・官僚等の価値観があまりにも低い…。
話がよく分からない方向へ行ってしまいましたが、何が言いたいかというと建築家とビジネスモデルとの結びつきのイメージが余りにも外部からの印象が薄い。
建築界隈でもデザイン思考や建築プロポーションの主要論から始まる人間に及ぼす作用等の人間操作的建築マンは社会ビジネスモデルをないがしろする傾向があります。
外部からも建築やデザインにおける社会との連動制が必要になりつつあると認識してほしいというのがあります。市場派という存在の認知というところでしょうか?(建築デザイン系統のお金儲けの認可(?)、職的シンボルからの脱出、拡張)
ちょっと長くなるのでここで終わります…。続きは三日後ぐらいに出します。
リスペクトから生まれる次世代のデザイン Clink!=Clip+Link
今日はこちらのお話です。画像は引っ張ってこれないのですが、このゼムクリップは〈Clink!=Clip+Link〉という織咲誠さんの作品です。
この作品から伝わる「物質量やコストによらない利」が明確に表現されています。「物質量やコストによらない利」とは織咲さんがデザインするうえで提唱している一部で、今回の場合実態とする線・針金自体は変化せず、無駄な要素は一切加えられていません。その代わり+αとしてゼムクリップの線としての構成を組み直して〈引っ掛ける+挟む〉を生み出したのです。
最近、生き物をモチーフにしたようなゼムクリップなどがあります。それ自体は否定しませんが、ゼムクリップそのもののデザインに対してリスペクトが感じられない点が目立ちます。本来利便性を追求した機能美に複雑に絡まり合ったデザイン性がここまで利用されてきた価値のあるモノであったはずです。その性質を崩されてしまっているのは違うのではないでしょうか?
またこのクリップはシチュエーションがはっきり見えるのがポイントです。次世代が活用するコンテンツとして、需要を目的としたデザインを前提とするのではなく、生活に需要を見出させるデザインをすることがこれから求められるデザインではないでしょうか。(商品化されてんのかな…)