芋焼酎(建築学生)

以前は卒業制作に至るまでのストーリー?的な感じでしたが、今回二度目の卒業制作ということで、建築に関係のないことを色々やっているうちに自分が何なのかわからなくなってきた苦悩の日記に成り果てました【不定期21時更新】

建築学生、他人に分かる言葉で話せよ、ってさ。③

 京都で大学院生活を初めて早1ヶ月だが、ゼミが放置タイプであるため自分なりに文章を書く機会を増やしてみてる。

 

以前の投稿もそうだが、自分の糧となりそうな講義のログ、曲作りやコンペのアイデアも然り即ボムの精神を大事にしてる。

 

そんなことはどうでもいいが、以前より建築学生の言葉の使い方、用法を気にする記事を書いてきた。

 

建築学生の言葉(かなり雑な表現だが)は学問に増資の深い身内で使う分には問題ないし、むしろわからない言葉はGoogle様に頼り、検索する癖をつけた方がよき。

 

他学問の領域まで拡がる建築言語の森を楽しく、自ら探究するべきだし、自らの糧にした方が得である。

 

が、そうでない人にはどうするべきだろうか。

 

①文字と図式など視覚的に理解させること。

②使う言語を体感や感性で分かるもの、学術性より経験的に納得できる言語を注意して選択し、伝えること。

③自分が一方的に話すのではなく、相手側を「傍聴から参加している人へ仕向ける工夫」が大事。

 

前回と少しニュアンスが違うようにみえるが、ほぼ同義である。最後の問題は「話し方」である。

 

日本語というものはお互いを理解しあう会話において厄介極まりないなあ、と最近よく思う。

ひどく抽象的であいまいな表現を多用し、相手に誤解を生むような単語が多い。

日本語の良さといえばそうかもしれないが、伝え方のデザインとしてはどうなのだろうか?

自分も多用して情けないが、「多分」や「~のような」(前の学校の師は例えば《森のような建築》といった提案を出すと、「なら森でいいじゃん」というなかなか切れ味が鋭い返しをされたことが記憶に新しい…)、主観なのか客観的なのか分からない文法、言い始めたらきりがない。

最近考えているのが、誤解が生みそうな発言では、英語や中国語のように言い切り及び断定、面倒だが出だしの「私は」など省略してもよさそうなところを言うなど、丁寧に正しく言葉を用いるというのは、「伝え方のデザイン」の以前に、礼節なのかもしれない。

言葉を正しく伝えるというのは、やはり難しいものであるが

「この発言を聞いて中学生だったらどう思うのだろうか?」

というのは常に念頭に置きながら話さなければいけないな、という訓練を繰り返していかなければいけない。

 

少し話がずれるが、「話し方」が上手な人はyoutubeで建築コンペティション関連で検索すると良く出てくる。

例えば卒業設計展で多いが、作品の話の流れから

審査員「この作品ならこういう可能性もあるよね…?どうかな?」

制作者「いや、この作品はこういうコンセプトで作られているので違います。」

 

制作者の気持ちはわかる。しかし作品の可能性を閉ざすのもそうだが審査員の気持ちも離れてしまう発言でもあり、もったいない。聞き手が関心を持ち、会話の中でそれぞれがよいイメージをもった状態で質疑応答を終わらせることも一つの「話し方のデザイン」なのかなと最近思う。

 


第8回 エイブル空間デザインコンペティション 『THE PRESEN』 (5/7)

 

全三回にわたってまとまりのない話をしたが、全体で何となく言いたいことが伝わってくれると、うれしい。