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建築学生から何故か布全般を扱うデザイナーになりました

美術の価値とは(20190424 感性学まとめ)

下記の内容は修士課程に含まれる、感性学の講義内容をまとめたものです。また講師の言説を私個人が独自に解釈し、まとめたものなので特定の団体及び個人とは関係が無く、講師が話した言説とは別物であることに注意して下さい。

 

①:偽装と価値(人間のキャラクター)
偽装とはある人間を示す1種のキャラクターである。近年芸能界や科学界では偽装問題が多く取り上げられたが、「結局普段の生活を暮らす人々の誰が困ったか?」で見ると、誰も困らなかった。

 

→無意味な批判であり、キャラクターが嘘でも真でも、見せられた価値自体は変わらない。でも食品の場合、例えば高級な鶏肉を食べている時に、それは安いスーパーの鶏肉と言われて、味が落ちたと言う。それは何故?


②‪α‬:美術品の価値(落語による「はてなの茶碗」から)
はてなの茶碗」における「ぽたぽたと漏れる無価値な茶碗」は、富豪や天皇のサイン、つまり『その作品における背景の物語』で価値がついた。

作家や美術の潮流自体は研究しやすいが、美術品自体の研究は難しい。作品自体を語るのは作品が意味性において空虚であるため、価値を見出すのは難儀である。


美術における作品の価値とは…

美術品の多くのもの自体には価値がない。価値がつく場合は、美術史との結びつき(歴史への投機的作品)が生まれた時点である。


‪②β‬:哲学・科学・美術における歴史
近代の歴史とは、単に事象の羅列ではなく、事象が起こった理由を客観的にロジカルに説明可能にすること。→「物語性」

 

科学史→技術に伴った進歩がある歴史

 

哲学史→理論のベクトルは変わるが、技術的発展がないため、『進歩』がない。

 

美術史→理論のベクトルは変わるが、技術的発展がないため、『進歩』がない。


アール・ブリュットは美術的訓練を受けている人ではなく、美術史を踏まえたうえで作品を制作していない人々を指した方が正確である。


美術史は19世紀のイギリスから端を発し、西ヨーロッパのモデルを参考にしている。また日本美術は何かをつくる事には熱心だが、何かの賞を定める事には無関心に見える。


‪③:つくる美術品に歴史や評価を内在させるということ
美術品は歴史・物語や外部からの評価を内在させることで、初めてその作品に価値が見いだせる。

 

ある意味、現在最先端の美術というためには、歴史的背景を作品自体に射程をもたせる。目に見えない、内在している歴史的テキストにこそ価値があり、ただつくることに徹した態度をやめるべきである。

建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。②

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約束の時間に遅れるやつの5割は留年している。
一日遅れですが、どうも芋焼酎です。
 
さて話は前回に引き続き、塾のアルバイトで考えることになった、他人に対してどう伝えるとより深く伝えられるか?「伝え方問題」の話。
 
ではこの1年で私なりにこの塾での経験を活かしてどのような結論に達したか。以前塾長に送ったメールをほぼ改変なしで。
 

建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。①

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毎度のことですが、お久しぶりです。3月で大学を卒業して、4月から京都の大学で大学院生になります。それを卒業したら、遂に25歳。こわ。もうみんなブラック企業の話が酒のつまみ。

 

学生の最後というものをすでに高専の時と、大学の時で2回見届けることになったが皆懲役40年が始まるから、あたかも最後かのように旅行で友人との思い出を作っていく姿が2回とも印象的だったかなと。

なんか海外旅行とか友達と遊べるのも学生じゃないとできへんぞ!みたいな意見をよく聞くけど、いまどき自分のジョブ次第で変わりそうだし、ほんまに最後なんかなぁという疑問ともやもやがこのブログの筆を進めるきっかけにもなる。『もやもや』がブログを書く時のガソリン。

 

特に何かに追われていた訳でもないですが、ブログさぼりがちですね。はい。

 

ここ最近で変わったことといえば、設計事務所以外でバイトをしたことで自分の発言を見直すきっかけが見つかったこと。

 

去年の4月から始めたのが、ほぼほぼ個人経営の塾のバイト。小学生から中学生向けに先生:学生=1人︰2人で1時間教えるといった場所でしたね。初めの1ヶ月はほんとに大変。

 

何が大変かというと、生徒に教えたいことや間違っているところを伝えたくても、全く伝わらないし、伝わってるかどうかもわからん。俺も生徒もお互い「🤔」が頭の上に浮かぶ。この自分と生徒の間で互いに伝わらない問題を自分の中で、「伝え方問題」として1年間考えることになる。

 

話が少し脱線すると、塾の生徒がよく言う事として、(数学において)「答えに載っている解説が『全て正しい』よね。だから先生が言う『こっちのやり方の方が早くていいよ』は習ったやりかたじゃないから分からないし、難しそう」

 

この考え方をしてしまう生徒が結構多くて、恐ろしいウイルスに侵されてるなと…。原因を探ってみると根深い問題であることが分かった。

 

問題の原因を整理すると以下のようになる。(特に中学生の数学に言えることに今回は絞る)

 

①学校で教えてもらったことを「手順」のように覚えてやり方だけ理解する。そうすると問題文を読まなくても数字と部分的な言葉で解けてしまう

→「入試問題で二次方程式の文章問題を見た時に、一次方程式か二次方程式のどちらで解けばいいか分からなくなる」

 

②以前習った単元の内容と現在習っている単元を切断して考えてしまうため、理解に時間がかかるor全く解けない

→「二次関数の問題を解く時に、連立方程式などを繋げて考えれないため(2つの座標を求める→二つの式が出てくる→どうすれば解ける?)、思考が止まる」

 

③そもそも問題が何を言っているかわからん

→国語能力及び読解力

 

つまるところ全て3番に帰結する、簡単に言ってしまえばこうだ。

『(文の最後にこの問題を方程式で求めよ、みたいな求め方が隠されてしまうと)何を求められているかすら分からなくなる』

という他人ごとではない病。

 

この問題、子供だけではなく大人でも多くの人に言えるし、教育の話や社会の問題にも繋げれるけど、その話は後にして、今回は私にも問題があったという話。

 

実際自分が7年から8年程度、早い段階て建築や言い回しが複雑な本を読んだり、学んだことで変な癖がついたというのもあるのかもしれない…。

 

この話、塾長にもわざわざメールでぶつけてみるほど自分の中で溜まっていたもやもやなのかも…。

 

次回はそのメールの内容を基本編集なしで投稿して、③くらいで終結予定。自戒の念をこめて金曜までには書く。

お久しぶりです

お久しぶりです。当初は週一で更新するとか言っていましたが、まる1年以上、なんならまともな記事のものだとまる2年近く放置していましたね。誰も見てないからいいやという気はしてましたが…(笑)。

 

さて、卒業設計を終え工業高等専門学校を卒業しました。後に環境科学部建築学科に編入学し、今はめでたく4回生です。

 

この学校では前期後期に分けて卒業研究があり、前期は統一で論文(梗概2枚だけでも可だから実質ザル)、後期は本格的な論文or卒業制作になります。

ので今は前期は終わり(うちのゼミは何故か来週の頭に少し厚めの論文を提出…)、夏期休暇です。否が応でも受験(大学院進学希望)と卒業研究・制作が迫ってきます。とてもデジャブですね。

 

ということで、またすこしずつこのブログも動き始めます。よろしくです。