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建築学生から何故か布全般を扱うデザイナーになりました

読書レポート メディアとしてのコンクリート つづき

 第四章 コンクリート地政学

 地政学という言葉は建築をやっている中で、あまりなじみのない単語である。しかし英訳すると「Geopolitics」(Geography(地理) + Politics(政治))となり、おおよその意味が想像できる。ざっくり言えば地政学移民問題や海外の内戦情勢といった政治情勢を地理的条件から読み解く学問である。

 第三章でコンクリートがイタリヤやドイツによって政治的利用された話をしたが、第四章ではどの国で買っても同一素材であるセメントと違ってコンクリートに含まれる『労働、鋼鉄、骨材』1)はそれぞれ生まれる場所が違う、つまりコンクリートは地域的特性が孕んでいるという仮説から話が始まる。コンクリートは多くの意味を含んで「普遍的な」素材として認識されがちであるが、コンクリートには国籍があるのか、それともグローバルな材料か、それともどちらでもないのか、という問いを通じて、地政学におけるコンクリートを考える章である。

 

 この章には【国のコンクリート】という節に【日本】という項があり、項の最後には(結論めいているが)『コンクリートを「日本的」として主張することは、その実際の特質が何であれ、場所の些細な変化から生み出される差異の表れとして見られるべきだろう』2)と書かれている。とはいえどのような地理的条件が「日本的」コンクリートたらしめるのか。本書の【国のコンクリート】には【日本】と【ブラジル】の2つの項がある。その2国を取り上げている理由として『各国がコンクリート構造で建物の安全性を保障する独自の基準を設けた』3)ため、『異なる規制制度、異なる建設文化、地域労働市場の相違など』4)によって図らずともコンクリートの扱い方に独自性が表れ、そのなかでも国の活用として肯定的な評価を受けた国であったからである。

 

 1900年代初頭に日本へ到来したコンクリート西洋文化に抵抗があったため、日本人に馴染むことはなかったが、次第に耐震性能をもった建築素材として注目され、扱われ始めた。日本は言わずと知れた地震大国であるが、当時木造過密地区や住宅不足などの問題があり、自然災害に脆弱な側面が依然として存在した。この災害に対するイメージが日本のコンクリート建築を『重厚さと堅牢さ』5)へ導いたのは間違いないだろう。また補足として著者は日本人のコンクリート利用法における過剰性への価値観から重厚さ的なコンクリート建築へ導いたのでは指摘していた。日本の建築家は量塊的で余剰を含んだ重厚な寺院建築、木造伝統建築に慣れ親しんでいたため、ヨーロッパの構造合理主義に示されるような、形における強さを目指さなかったとしている。この補足には私自身洋館建築の模倣が当時多く行われた背景もあるため懐疑的だが、丹下健三香川県庁舎(1958)を見るとなんとなくその側面も理解できてしまう。

 香川県庁舎は構造や梁のディテールまで木材であるかのように見せている。また柱は『1階の柱はまたも型枠の木目がついたコンクリートで、足元が切り取られ、柱が木材で覆われている』6)ように見せ、表面さえも木のシンボルを持っている。日本の近代コンクリート建築は災害との付き合うため、またコンクリートを伝統木造建築のように贅沢に用いるなど日本独自の価値観から重厚さと堅牢さをもった形態へ導かれた、これは日本的コンクリートというには早期な気がするが、その傾向はあるといえる。

www.tangeweb.com

10plus1.jp

 

 

第七章 記憶か忘却か

 コンクリートは記念物にとって選択されやすい材料であったが、しばしば『記憶喪失的な素材』7)としてみなされる節があった。またミニマリストなどの『記憶の表象に敵対する芸術家には避けられ、記憶を表象したい者には選ばれ』8)た素材でもあった。ピーター・アイゼンマン(1932-)のホロコースト記念碑(1997-2005)をイメージしてくれると理解しやすく、その現状は石碑に腰かけて談笑する若者など、人々がじつに思い思いに過ごす場となっている9)である。このように記念碑は作ったものの、その形から当時の記憶を想起させることや記憶を忘れていくことにどう対抗するか、といった問題に直面する。コンクリートは素材の特性から問題の悪化を手助けしてしまう素材なのかもしれない。この章で紹介されている4つの記念碑はコンクリートが『同時に記憶と忘却の材料でありうる』10)ことを示す内容となっている。一見矛盾を示すようだが、これこそが一番の特徴だと私は確信している。

 

 作者はその1つとしてパリの移送ユダヤ人犠牲者記念碑(1953-62)が挙げられている。設計者のジョルジュ=アンリ・パンギュソン(1894-1978)はそもそも記念碑に記憶を託す試みに懐疑的だったのもあり、移送ユダヤ人犠牲者記念碑には具体的なシンボル性もなければ、文字も示すものもない11)。(画像をみながら読んでほしいが)そこには地下に彫り込まれた4メートルのコンクリート壁で囲まれた「ヴォイド」があり、そのコンクリートには風化を助長させる目地や継ぎ目も存在しない12)ため、その場で読み取れる情報や時間性があまりにも少ない。パンギュソンは『一種の感覚遮断を生み出しており、観者が空と現前とに集中するように強いている。取り囲むコンクリートはいかなる種類であれ、歴史を振り返るばかりか時間の経過を思い返すことも促さない13)』ものとして記念碑を設計した、と著者は持論を展開している。この記念碑におけるコンクリートは風化を防ぎ永続性を獲得しながら、鑑賞者はそこから記憶、時間さえも獲得できない。パンギュソンはこの記念碑を設計するにあたって、記念碑における記憶と忘却の儚さや瞬間性を受け入れ、記念碑に赴くということはどういうことかを問うた上でコンクリートを採用したといえる。

de.wikipedia.org ホロコースト記念碑(1997-2005)

03_12 Memorial des Martyrs de la Deportation

 移送ユダヤ人犠牲者記念碑(1953-62)

 

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 ここまでの文章からコンクリートはもうつまらない素材と感じることは難しいだろう。前回のブログの最初にコンクリートは雄弁で且つ沈黙を貫く素材と書いたが正確には違う。第7章の最後には記念物が逆にコンクリートに与えたものがあると示した。『コンクリートを記念物に使用することで、コンクリートは意味に影響されないわけではなく、図像的意味を持つという事実が露わになった。加えて(…)コンクリートの意味はまったく流動的で気まぐれであり、歴史的状況によってつくられるという事実も露わになった』14)

 コンクリートは常に沈黙を貫く素材だが、人間が持たせたがるもしくは持たせてしまった意味がコンクリートを通じて意味、もしくは図像となって表れる。それは素材が語っているように見えるが、人間が素材(メディア)を使って間接的に語っているのである。また記憶と忘却の関係のように、人間が語りたい「是」の内容に対して「非」が現れて、思い通りにならないひねくれた素材である。コンクリートは両義的かつ2項対立で考えるとうまくいかない。私には本当は「近代/非近代」、「歴史的/非歴史的」「自国的/国際的」ではなく、人間の都合でかつ、偶発的に意味性がコンクリートの中で入れ替わるメディアとして付き合うほうが正しいと思う。まさに『コンクリートと文化の関係は依然として不安定なまま』15)の状態を受けいれることがよいのではないだろう。

 

1)本書, p130  2)本書, p179  3)本書, p152

4)本書, p152  5)本書, p173  6)本書, p173

7)本書, p252  8)本書, p252  

9)小田原のどか,戸田穣 彫刻と建築の問題——記念性をめぐって(アメリカ・ドイツをめぐる記念碑の議論), 10+1 websitehttp://10plus1.jp/monthly/2018/08/issue-01-4.php

10)本書, p281  11)本書, p271  12)本書, p272

13)本書, p272  14)本書, p282  15)本書, p376

 

 

 

 この記事では全10章の中で特に自分が関心を持ったものを要約し、書きながらコンクリートへの理解を深めていけた。本書を読むだけでも知らない単語が多く、ggっても英語圏の記事しか出てこないアカデミックな内容ばかりで刺激的な物であった。写真の章も面白かったが、説明の文章を書く体力がもう残ってないのでまたの機会にしたい。

 知の探検をするにあたって必要な一冊であることは違いない。

読書レポート メディアとしてのコンクリート

 私はある高専の4回生にして初めてコンクリートの成り立ちを見た。その時は「建築材料実験」という授業で砂をふるいにかけ、分量を計算、調合し混ぜ合わせるといった過程をふみながら生成した記憶がある。他にも「建築材料」や「鉄筋コンクリート構造」といった授業で物性や強度におけるコンクリートを私は学んだ、まさに工学的教育の観点から材料を知ったといえるだろう。私が学んでいた高専JABEE(日本技術者教育認定機構)認定校であったこともあり、一級建築士になるためにコンクリートを数ある建材の一つとして学んだ。その教育地盤が私にあるため、この本《メディアとしてのコンクリート: 土・政治・記憶・労働・写真》には驚かされた。

 

 この本を読むにあたって、コンクリート通俗的な座学を求める人には適さず、ましてやコンクリートの年表のようなものを期待している人にも適さない。訳者の言葉を借りるならば『コンクリートの意匠的、文化的価値について説明する本』1)を期待する人に適するとされている。

 

 本書の副題にある「土・政治・記憶・労働・写真」はコンクリートという素材(メディア)を通じて、それぞれの歴史の見え方が更新されるものとなっている。各章ごとにコンクリートもしくは「土・政治・記憶・労働・写真」という「メディア」の読み解きを繰り返していくことで、いかにコンクリートが雄弁なメディアでありながら沈黙を貫くメディアに見えるか、または相反する二面性を持つメディアであるかを知ることができる。

 

 とはいえこの記事はあくまで読書レポートであるため、本文で350000文字程度(?)ある本書をコンパクトにかつ、気になった章においてなぜ面白く感じたかを書き留めることを目的としていきたい。(添付されたリンクは建築のイメージと名前をリンクさせるものです)

 

 

第一章 土と近代性

 コンクリートル・コルビュジエ(1887-1965)などが新しい建築の形として用いたことで、近代的建築表現の「近代性」を象徴するものとして扱われた。その一方でコンクリートには高度な手作業に依存する非先進性、「非近代性」が孕んでいるように見えてきた歴史がある。そのためコンクリートに対する議論は常に「近代性」と「非近代性」という矛盾する性質の間で揺れ動いてきた。この章ではセメント・コンクリート産業がコンクリートの初期の歴史において、近代性をもつ素材という評判を獲得するまでの事例と歩み2)、そして歩みを進めることで「非近代性」の側面にも気づいていく事例が記されている。

 

 この章で興味を引いた人物として、オーギュスト・ペレ(1874-1954)が挙げられる。当時のペレのコンクリートに対する見方が特にこの章の興味深さを引き立てる。ペレは1903年に複数コンクリートフレームでつくられたフランクリン街25番地のアパートメント(1903-4)を設計するなど、当時フランスでは建材として新規性があったコンクリートの設計において先駆者的存在で、古典的なオーダーやシンメトリーを多用し、古典主義に忠実な側面がある建築家である。第一次世界大戦後、鉄筋コンクリートは(一時的に)コルビュジエや他の建築家によって「革新的」な材料と評され、ペレ自身第一次世界大戦以前から鉄筋コンクリートのデザインの評価が高い人物だった。しかしペレの作品に対して当時の批評家たちは『材料の選択の新しさと、形態の古典性という明らかな矛盾がある』3)と指摘している。

 

 1920年代のペレの作風は新規性の強い形ではなくポンテュ街の車庫(1906-7)のようなフレームを表す傾向があった。またペレの関心はコンクリートを近代的なものとして回収せず『「高貴」なものとして確立させる』4)ことであり、それが次第に柱梁構造で構成するようになる作風へ繋がっていく。またランシ―の教会堂(1922-3)の建設以後、『すべてが打ち放しコンクリートで作られ、ぴしゃん打ちで骨材を露わにするよう仕上げ』5)られるようになった。

 

 この文章からペレは「純粋にかつ合理的に用いたコンクリート」に魅力を感じたことがうかがえる。また土と同様に『鉄筋コンクリートは「部材」がない建設方法である』6)ことを踏まえてなお、まぐさ式構造に拘った信念はペレ後期のフレーム建築に強く反映されていると考えられる。
www.gettyimages.co.jp ポンテュ街の車庫(1906-7) 

Auguste Perret, Notre Dame, Le Raincy, 1922-23

 ランシーの教会堂(1922-3)

 

  

第三章 歴史のない素材メディア

  コンクリートはどのような形もつくれる自由な素材である。そのためコンクリートは鉄骨建築や木造建築など建築形態や様式に擬態することができ、代表的な形といわれても思い浮かべることができない。ギリシアの建築家P・A・ミケレスは『「鉄筋コンクリート建築の形態は、不完全で中途半端なものであり、仮にそこまででないにしても未だにその形態を特定することができていない」』7)とし、コンクリートの代表的形態の不在を指摘、歴史のない素材として表現されている。この話は現在でも鋭い指摘に感じ、共感できる。

 

 一方サント=ジャンヌ・ダルク教会の設計競技案について本書で興味深い引用がされている。『ペレの設計案についてポール・ジャモは、「この巨大な教会は、医師の脆弱さゆえに自らのカテドラルで計画通りに塔の本数や高さを実現できなかったゴシックの建設者たちの夢をかなえるものとなるだろう」と記した。さらに以下のように加えた。「鉄筋コンクリートとそれがもたらす変化の恩恵を受けて、オーギュスト・ペレは5、6世紀の時を経て、中世の理想を実現している」』8)。つまりゴシック建築の夢を叶えられる素材として石からコンクリートへ。このように中世建築研究者や構造合理主義者にはコンクリートを歴史のない素材として見えていた。

 

 

 第三章は以上のようにコンクリートの歴史性の是非を問う章で、【コンクリートの歴史性】【非歴史的な素材】といった節がある。そして最後に【過去と現在を混ぜ合わせる ー戦後イタリア】があり、この節とそこで紹介されているジョヴァンニ・ミケルッチ(1891-1990)が設計したサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(1960-64)に注目したい。

 

 が、その前にイタリア合理主義を簡単におさらいしたい。イタリア合理主義とはファシズムという政治体制や文化、芸術と深い関係がある建築運動で、ファシズム建築としてカテゴリ化されやすいが、主な特徴としてモダニズム建築と古典主義建築、二つの主義を折衷した形状が特徴的である。代表的な建築としてジュゼッペ・テラーニ(1904-1943)のカサ・デル・ファッショ(1932-6)、マルチェロ・ピアチェティーニ(1881-1960)のイタリア文明館(1938-43)などが挙げられる。またファシズムとコンクリートにおける関係は特筆すべき点がある。そのテキストは第八章に詳しく書かれているが、そのテキストを短めに抜き出したい。『ファシズム期のイタリアでは熱狂的かつ創造的にコンクリートを使用した。(…)コンクリートが国家の技術的進歩主義を示す材料であった』9)。またテラーニのカサ・デル・ファッショでは『コンクリートの躯体がすべて他の材料で覆われているが、中心の重要部分だけはそれ自体が宗教的な遺構であるかのように躯体が露わになっている』10)

 

 本書では明言していないものの戦前から戦中にかけてのイタリアはファシズムを表すメディアとしてコンクリートを用いていたことが容易に想像できる。

 

 上記の戦前-戦中のイタリアにおけるファシズムとコンクリートの関係性を踏まえたうえで、戦後に建設された太陽道路の教会の話に戻りたい。著者は当時のイタリア建築家を『ファシズムから距離を置きつつも、ファシズムのもとで(…)花開いたモダニズムを否定したくない』11)という両義的なイタリア建築の在り方を模索していたとし、それはミケルッチも同様であった。戦後のミケルッチは有機的建築への片鱗を感じさせるデザインや多様な素材を用い、複合建築を採用することに注力した建築家である、そしてペレのような合理主義的建築を否定するようになった。その特徴をサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会から見ていきたい。

 

 下記のリンクにある教会の内部空間から見て分かるように『柱、支柱、筋交いがすべて、まったく混沌とした形で寄せ集められて』12)いる。そしてコンクリートの天蓋は不十分に見える支柱によってテント型を維持している。このデザインはミケルッチの特徴である、建築における工学原理主義への警告(否定)と見て取れる。またこの教会に対して当時の批評家たちは『(…)ドイツ表現主義、[ヘルマン・]フィンシュテルリンやシュタイナーのゲーテアムス、そして[ハンス・]シャウロンのベルリン・フィルハーモニー[コンサートホール]』13)から類似点を見いだした。この教会建築は「過去」のコンクリート建築の様式や伝統を引用と統合をしながら、「現在」の工学を無意識にデザインに還元する態度に疑問を投げたものといえるだろう。

 

 各国にはそれぞれ独自にコンクリートの歴史があるが、それが結びつかれて建築になることはなかった。戦後イタリアの建築家はその非歴史的なコンクリート(の文化)を建築として統合させ、当時におけるファシズム建築の向き合い方を提示することができた、「コンクリートを理解した者たち」といえるのではないだろうか。

de.wikipedia.org カサ・デル・ファッショ(1932-6)

en.wikipedia.org イタリア文明館(1938-43)

www.bmiaa.com  サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(太陽道路の教会)(1960-64)


 

この続きの章は来週末をめどに出します…。

 

 

1) 著:Adrian Forty, CONCREAT AND CULTURE, Reaktion, London, UK, 2012,(エイドリアン・フォーティー 訳:坂牛卓+邉見浩久+呉鴻逸+天内大樹, メディアとしてのコンクリート, 鹿島出版, 2016, pi) (以下「メディアとしてのコンクリート」を引用する際は(本書)と要約する)

2) 本書, p13 3) 本書, p23  4) 本書, p28

5) 本書, p27 6) 本書, p36  7) 本書, p109

8) 本書, p105 9)本書, p268  10) 本書, p268

11) 本書, p114 12) 本書, p121  13) 本書, p121

 

 

「技術」を「ワザワザ」と読むことで何が見えるようになるのか

最近1泊2日で韓国仁川にあるカジノ「パラダイスシティ」に行ってきた。そのカジノの内装や空間構成、賭博という「遊び」から生まれる、プレイヤーの振る舞いが今読んでいる『プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking) 』の内容とリンクするところが多かった。またその話は次回以降にしたい。

プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking)

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話が変わり、もう10月の話だが、U-35で展示が行われていた佐藤研吾という建築家が、滋賀県大のDANWASHITSUでレクチャーを行なってくれると聞いた。そのため日帰りでまたしても県立大学を訪問した。


『技術を「ワザワザ」と読むこと』

という全体テーマで話が進み、
・生産過程と成果物との不可分な関係
・あらゆる技術を平等に眺める
・モノの成り立ちに伴う複数性

・active archive amateur   荒地/遊び
・ヒトとモノが共同で繋ぎ、作り上げる(アクティブ)+作り上げられたもの(アーカイブ)

など様々な副題がスライドに移された。

その後は大玉村の歓藍社やインドの学校でのプロジェクト、Project in Santiniketanなどの事例を紹介していた。

 

それぞれ話を聞いていたが、仮説に基づいた建築設計の論的な話はあまり出てこず、意外と実体験に基づいた「経験」→「建築という職能のあり方」に着目した話が多かった。滋賀県立大学らしさというか、芦澤ニズム(?)を言葉の節々に感じてしまう。(もちろん悪いとは言ってない)

 

佐藤氏はインドを含め、農村など過疎地域での活動が目立ち、「ムラ」という孤立、現代の日本における建築家の有り様を考えさせる言葉も多かった。

「ムラ」の中における建築家は、食を、農作業を、寝る場を共に作る、つまり共生を「しなければならない」環境に身を置く、村民の1人と言える。つまり「ムラ」の中では、家や物の作り手である大工と建築家が同じ「ムラビト」でかつ「ムラ」の中でも役割が近い。一方で、ものづくりに対する思考が違うため、制作プロセスが複雑になるが、より近い存在で制作を共にするため、良いものが生まれるのだろう。

 

しかし現代の建築家と大工(作り手)には制作ということに関して大きな隔たりがある。佐藤氏はその隔たりの理由を自身のブログでこう書いている。

昨今の建築における現場と設計の隔たりは、もちろん契約や保証、法規に関する問題からくるものでもあるだろうが、やはり建築を構成する部品のほぼ全てがプレファブリケーション、現場外での工場生産によってなされるようになったことがその問題を大きくしているのではないか。工場生産された部品群の現場での組み合わせはほとんどガンジがらめのルールにしたがってやらなければいけない。既製品の組み合わせの工夫自体が昨今の建築設計の内実となってしまっている状況があり、設計が選んだ既製品の組み合わせ作業が現場の仕事となっている。

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第33回 : ギャラリー ときの忘れもの

そのため、作り手と設計者が近接しながら適度な距離感をもつ1つのやり方として、金物など建築の一部となるものを建築を構想する者(設計者等)が制作することや、大工が考えられる余地を残す設計を佐藤氏は実行している。他にも

インドでのプロジェクトなどはなおさらだ。たとえ現場に関わることが難しいプロジェクトであっても、何かを作って現場に運び、現場への支給品として納めることもできる。設計図面の納品、および現場監理という仕事とは他の形で、その建築の質なるもの一端へ関与することができる。

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第32回 : ギャラリー ときの忘れもの

と述べている。

 

金物などの話は建築規模が大きくなればなるほど難しい話にはなるが、このような小さな技術や手間(ワザワザ)を設計~施主の間や物と人の間に挿入する事で、より自分(設計者)にとって作品という存在を近いものにする方法とも言える。

 

佐藤氏の作品を見ても、1つの物において、両者が対等に制作する為に、その制作物における制作プロセスやパーツ(佐藤氏はパーツに重きを置いている)となるものをさらに制作する事で、理論と実践を上手く作品に補完できるのであろう。

 

大分更新が遅れたけど、次は現在京都市立芸術大学作品展が2月にあるので、それに関することを書けたらなと…。会場は芸大と崇仁地区にある元崇仁小学校ですが、僕のは小学校の方です。2月8日(土曜日)~11日(火曜日・祝日)

9時~17時(入場16時30分まで)入場無料です。よろしくお願いします。

 

(年々来場者数が減ってるグラフが学校に張り出してあるのですがのが見てて辛いので…)

20190930 「構え」と「住みこなす」こと

ぼけっとしているうちに、10月も終わりを迎えどこを尋ねても、新たな進路を聞かれる時期になった。寧ろ皆は私が就職をするなど微塵も考えていないし、最早出来るとも思ってもないとだろう。私もそう思う。就職して何年か経った友人は時計や外車、仕事の愚痴の話が増えた。この話を聞くと、いつか自分の話や関心が「社会の大きな流れ」に左右されてしまうのかと、就職できるか分からないのに不安な気持ちにさせられる。

 

ここ最近は遠くに足を伸ばし、フットワークを軽くすることに専念している。何も知らない未開拓文明に、恐れず踏み込む気持ちで訪ねている。クラブや美術館、未知のワークショップ、などのインプット。インプットした情報を自己解釈、書き起すことで己の血肉となるアウトプット。

その2つのバランスはどちらにも傾倒し過ぎないよう気をつけなければならないと思う日々である。

 

 

かなり前になってしまうが、木村松本建築設計事務所の講演会を滋賀県大のDANWASHITSUで聞いてきた。彼らの話はどことなく県大の建築思想を想起させるものが多かったが、その中でもよく覚えてるのが〈house T/salon T〉-⑴ の話である。

house Tの施主はファッションデザイナーで、家族のためのアトリエ・多目的サロンを併設した職住一体型住居を1200万円で建てて欲しいという提案であった。松本氏はその提案での葛藤とそこから見えた発見について語っていた。

house Tは1階が均質で開放的な空間でありながら、設備コアと木造軸組の構造コアを兼ねた場となっている。その構造コアが閉鎖的で耐力壁が使えない2階を支えるものとなっている。

この建物の奇妙な箇所もとい物語は、1200万円で建てられるところは建て、1200万円が尽きたら、建物が未完の状態を施主が希望した点である。施主は未完の建物に対して、生活に必要な機能を既に持っている物で自らの手で補う1つの「生き方」を採用したのである。例えばhouse Tの1階の水場に壁が欲しい時、ファッションデザイナーである施主は、自らの生活圏内のものである布で代用することができた。
私たちは資本によって、2019年の生活様式で暮らせる住宅を作り出すことが出来る。しかし(言い過ぎであるが)校倉式や竪穴式住居と比較すれば、無駄な物や構造体が多い。木村松本はこの施主から、まず人が住む場を組み立てて、その他全てを等価に扱う事でも1つの建築が成立する「構え」(これは構造を指す言葉でもあるが、1種の建築的態度を指す言葉でもある)に気付かされたのである。サイトスペシフィックな「構え」さえあれば、住み手は自ら生活領域を開拓するかのように、建築に適合しようと楽しみながら模索する、気づけば不思議と生活できてしまうということだろう。

 

この「構え」の思想は木村松本のスタディ方法にも及んでいる。木村松本のスタディは場合によって様々と前置きしていたが、住宅の場合は軸組模型が多いとのこと。そのため通常のプランニングや模型検討から決められる開口の決定は出来ないそうだ。例として〈house S/shop B〉-⑵  が挙げられる。この妻側の窓と筋交いは開口の位置が後から決められたかのような重複の仕方で設けられている。しかし制作プロセスを聞けば、この窓の様態は(構造の勝ち負けでも分かるかもしれないが)よく理解出来る。

 

村松本の建築は周辺環境から定義づけられた構造によって、合理的でフラットな建築にも見える。しかし青木淳の「原っぱ」を再現した建築とも言えない。この建築は2つの特性が噛み合うことで成立していると考えられる。ひとつはサイトスペシフィックで分かりやすい「構え」、2つ目は施主の「生活圏を開拓できる能力」を最大限引き出せるデザインだろう。

 

このレクチャーは住居建築の「構え」を再考するきっかけでありながら、設計者が住み手の住みこなす力を信用し、建築デザインに反映することの可能性を垣間見た瞬間だった。

 

house T / salon T

house S / shop B — 設計:木村松本建築設計事務所 施工:K's FACTORY | 新建築.online/株式会社新建築社
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建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。②

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約束の時間に遅れるやつの5割は留年している。
一日遅れですが、どうも芋焼酎です。
 
さて話は前回に引き続き、塾のアルバイトで考えることになった、他人に対してどう伝えるとより深く伝えられるか?「伝え方問題」の話。
 
ではこの1年で私なりにこの塾での経験を活かしてどのような結論に達したか。以前塾長に送ったメールをほぼ改変なしで。
 

建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。①

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毎度のことですが、お久しぶりです。3月で大学を卒業して、4月から京都の大学で大学院生になります。それを卒業したら、遂に25歳。こわ。もうみんなブラック企業の話が酒のつまみ。

 

学生の最後というものをすでに高専の時と、大学の時で2回見届けることになったが皆懲役40年が始まるから、あたかも最後かのように旅行で友人との思い出を作っていく姿が2回とも印象的だったかなと。

なんか海外旅行とか友達と遊べるのも学生じゃないとできへんぞ!みたいな意見をよく聞くけど、いまどき自分のジョブ次第で変わりそうだし、ほんまに最後なんかなぁという疑問ともやもやがこのブログの筆を進めるきっかけにもなる。『もやもや』がブログを書く時のガソリン。

 

特に何かに追われていた訳でもないですが、ブログさぼりがちですね。はい。

 

ここ最近で変わったことといえば、設計事務所以外でバイトをしたことで自分の発言を見直すきっかけが見つかったこと。

 

去年の4月から始めたのが、ほぼほぼ個人経営の塾のバイト。小学生から中学生向けに先生:学生=1人︰2人で1時間教えるといった場所でしたね。初めの1ヶ月はほんとに大変。

 

何が大変かというと、生徒に教えたいことや間違っているところを伝えたくても、全く伝わらないし、伝わってるかどうかもわからん。俺も生徒もお互い「🤔」が頭の上に浮かぶ。この自分と生徒の間で互いに伝わらない問題を自分の中で、「伝え方問題」として1年間考えることになる。

 

話が少し脱線すると、塾の生徒がよく言う事として、(数学において)「答えに載っている解説が『全て正しい』よね。だから先生が言う『こっちのやり方の方が早くていいよ』は習ったやりかたじゃないから分からないし、難しそう」

 

この考え方をしてしまう生徒が結構多くて、恐ろしいウイルスに侵されてるなと…。原因を探ってみると根深い問題であることが分かった。

 

問題の原因を整理すると以下のようになる。(特に中学生の数学に言えることに今回は絞る)

 

①学校で教えてもらったことを「手順」のように覚えてやり方だけ理解する。そうすると問題文を読まなくても数字と部分的な言葉で解けてしまう

→「入試問題で二次方程式の文章問題を見た時に、一次方程式か二次方程式のどちらで解けばいいか分からなくなる」

 

②以前習った単元の内容と現在習っている単元を切断して考えてしまうため、理解に時間がかかるor全く解けない

→「二次関数の問題を解く時に、連立方程式などを繋げて考えれないため(2つの座標を求める→二つの式が出てくる→どうすれば解ける?)、思考が止まる」

 

③そもそも問題が何を言っているかわからん

→国語能力及び読解力

 

つまるところ全て3番に帰結する、簡単に言ってしまえばこうだ。

『(文の最後にこの問題を方程式で求めよ、みたいな求め方が隠されてしまうと)何を求められているかすら分からなくなる』

という他人ごとではない病。

 

この問題、子供だけではなく大人でも多くの人に言えるし、教育の話や社会の問題にも繋げれるけど、その話は後にして、今回は私にも問題があったという話。

 

実際自分が7年から8年程度、早い段階て建築や言い回しが複雑な本を読んだり、学んだことで変な癖がついたというのもあるのかもしれない…。

 

この話、塾長にもわざわざメールでぶつけてみるほど自分の中で溜まっていたもやもやなのかも…。

 

次回はそのメールの内容を基本編集なしで投稿して、③くらいで終結予定。自戒の念をこめて金曜までには書く。