芋焼酎(建築学生)

以前は卒業制作に至るまでのストーリー?的な感じでしたが、今回二度目の卒業制作ということで、建築に関係のないことを色々やっているうちに自分が何なのかわからなくなってきた苦悩の日記に成り果てました【不定期21時更新】

20190930 「構え」と「住みこなす」こと

ぼけっとしているうちに、10月も終わりを迎えどこを尋ねても、新たな進路を聞かれる時期になった。寧ろ皆は私が就職をするなど微塵も考えていないし、最早出来るとも思ってもないとだろう。私もそう思う。就職して何年か経った友人は時計や外車、仕事の愚痴の話が増えた。この話を聞くと、いつか自分の話や関心が「社会の大きな流れ」に左右されてしまうのかと、就職できるか分からないのに不安な気持ちにさせられる。

 

ここ最近は遠くに足を伸ばし、フットワークを軽くすることに専念している。何も知らない未開拓文明に、恐れず踏み込む気持ちで訪ねている。クラブや美術館、未知のワークショップ、などのインプット。インプットした情報を自己解釈、書き起すことで己の血肉となるアウトプット。

その2つのバランスはどちらにも傾倒し過ぎないよう気をつけなければならないと思う日々である。

 

 

かなり前になってしまうが、木村松本建築設計事務所の講演会を滋賀県大のDANWASHITSUで聞いてきた。彼らの話はどことなく県大の建築思想を想起させるものが多かったが、その中でもよく覚えてるのが〈house T/salon T〉-⑴ の話である。

house Tの施主はファッションデザイナーで、家族のためのアトリエ・多目的サロンを併設した職住一体型住居を1200万円で建てて欲しいという提案であった。松本氏はその提案での葛藤とそこから見えた発見について語っていた。

house Tは1階が均質で開放的な空間でありながら、設備コアと木造軸組の構造コアを兼ねた場となっている。その構造コアが閉鎖的で耐力壁が使えない2階を支えるものとなっている。

この建物の奇妙な箇所もとい物語は、1200万円で建てられるところは建て、1200万円が尽きたら、建物が未完の状態を施主が希望した点である。施主は未完の建物に対して、生活に必要な機能を既に持っている物で自らの手で補う1つの「生き方」を採用したのである。例えばhouse Tの1階の水場に壁が欲しい時、ファッションデザイナーである施主は、自らの生活圏内のものである布で代用することができた。
私たちは資本によって、2019年の生活様式で暮らせる住宅を作り出すことが出来る。しかし(言い過ぎであるが)校倉式や竪穴式住居と比較すれば、無駄な物や構造体が多い。木村松本はこの施主から、まず人が住む場を組み立てて、その他全てを等価に扱う事でも1つの建築が成立する「構え」(これは構造を指す言葉でもあるが、1種の建築的態度を指す言葉でもある)に気付かされたのである。サイトスペシフィックな「構え」さえあれば、住み手は自ら生活領域を開拓するかのように、建築に適合しようと楽しみながら模索する、気づけば不思議と生活できてしまうということだろう。

 

この「構え」の思想は木村松本のスタディ方法にも及んでいる。木村松本のスタディは場合によって様々と前置きしていたが、住宅の場合は軸組模型が多いとのこと。そのため通常のプランニングや模型検討から決められる開口の決定は出来ないそうだ。例として〈house S/shop B〉-⑵  が挙げられる。この妻側の窓と筋交いは開口の位置が後から決められたかのような重複の仕方で設けられている。しかし制作プロセスを聞けば、この窓の様態は(構造の勝ち負けでも分かるかもしれないが)よく理解出来る。

 

村松本の建築は周辺環境から定義づけられた構造によって、合理的でフラットな建築にも見える。しかし青木淳の「原っぱ」を再現した建築とも言えない。この建築は2つの特性が噛み合うことで成立していると考えられる。ひとつはサイトスペシフィックで分かりやすい「構え」、2つ目は施主の「生活圏を開拓できる能力」を最大限引き出せるデザインだろう。

 

このレクチャーは住居建築の「構え」を再考するきっかけでありながら、設計者が住み手の住みこなす力を信用し、建築デザインに反映することの可能性を垣間見た瞬間だった。

 

house T / salon T

house S / shop B — 設計:木村松本建築設計事務所 施工:K's FACTORY | 新建築.online/株式会社新建築社
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20190807の感性学まとめ

今日をもって私の夏休みが開始されるわけだが、特に予定もなければ、建築学生あるあるの設計事務所インターンもするわけではない。怠慢といえばそれまでだが、院生の夏休みの使い方が分からずに迎えることになってしまった。

以前は夏休みこそコンペをガツガツやるぞ!みたいなハングリー精神を持っていたが、今は建築のみならず、多くのことに手を出す「落ち着きのない子供」そのものである。大学院生は少しずづ専門に特化していく存在らしいが、もはやそれには成りえることはない。そんな予感はする。

 

先日京芸の院生講義である感性学に行ってきた。最後の授業であり最終レポートを受け取るための補講。

いつも通り20分遅れていったら受講生は7人程度で、多くの人は一足先に夏休み、県大にはない自由?とういか芸大らしさを感じる。

 

感性学は基本的に芸大生が芸術に関する質問を先生に投げかけ、アンサーをもらうものだったが、いつの間にか芸大生のこころのお悩み相談室になっていた。しかも回答が曖昧だからぼんやりとなってしまう。

(私は今何聞いてんの…)みたいな気持ちはあったが、最後の講義はとても気になる話題だった。

 

 

1人の女学生が「常に怒りっぽく、近隣住民の騒音や落ちてきた鳥の糞、相手の些細な言動まで大小様々なことに怒りやストレスを感じるのですが、どうすればいいですか?」というものだった。

先生によれば、怒りというものは自分と「敵」が存在したうえで起きるもの。その敵への怒りをどのように処理できるかが問題で、怒りという感情は発生自体を抑制しにくいものらしい。

 

ここで重要となってくるのが自罰・他罰・無罰という考え方である。

これは後で調べたことだが、この用語は心理学で使われている。これはP-Fスタディ(絵画欲求不満テスト)で使われ、Rosenzweig,S(ローゼンツヴァイク)が自らのフラストレーション耐性理論に基づいている。

 

 P-Fスタディは、フラストレーションを引き起こす片方の人の発言が描かれた24場面に対して、他方の人がどのように返答するかを吹き出しに書き入れます。被検者には「この人は何と答えるか」と教示します。
 各場面に対してマニュアルで規定された表現の中から、被検者が書き込んだ発言に相当するものを「外見的、表出的意味」に基づいて選び、評定を行います(E'、Eなどに符号化する)。

 評定結果から、「アグレッションの方向(他責的・自責的・無責的)」と「アグレッションの型(障害優位型・自我防衛型・要求固執型)」を組合せた「9分類」のパーソナリティ傾向に被検者を分類します。
 アグレッションとは、どのように反応できるかという「主張性」を意味しています。

アグレッションの方向:
 他責的:他者を責める傾向
 自責的:自分を責める傾向
 無責的:誰も責めず、不可避と考える傾向
アグレッションの型:
障害優位型:障害の指摘に重点を置く「逡巡反応(シュンジュン)」。率直な表明を避け、欲求不満が解消されない。
自我防衛型:基本的で直接的な自我を防衛する「他罰/自罰/無罰反応」。欲求不満の解消のため率直な表明を行う。
要求固執型:問題解決に重点を置く「固執反応」。問題解決や欲求充足のための表明を行う。

P-Fスタディ: 心理学用語集

つまりは怒りの方向が他者か自分か無、このいずれかである。

問題の見え方(どこに怒りを感じているか)によって感情をコントロールするのは難しいが、社会では場面によってアグレッションの方向の使い分けが必要であると認識してる。議論や責任問題の話では、自分が他責的になれば相手を不快にさせ、他者の怒りを生む。しかし自責的過ぎると話が億劫になるどころか、自分へのストレスが強くなる。しましには日本人の多くが罹る「うつ病」になるだろう。

一見無罰がストレスフリーで、いかにして怒りの対象を無罰へもっていきストレスを抱えずに済むかという話に聞こえる。しかし無罰が過ぎると無反省な人として見られ、かえって更なる怒りを買う時がある。

 

答えが出ず、悩ましいところだが、先生は最後に重要なことを言っていた。

自罰や他罰を抱えた人は他人に「怒りが強い愚痴」を言う。

しかしその愚痴はまとまっていない場合が多く、結局何が言いたかったか分からず怒りが解消されないときもある。また厄介な問題として、話がまとまっていないにも関わらず、聞き手が理解しないと、話し手がストレスを感じてしまうことである。

その解決方法として、《他人に話す前に、ストレスが生まれた時の前後の話を自分で声に出す》こと。怒りは状況が整理され、原因が明確になると、自ら解決方法を導きだしやすくなり、聞き手も解決方法を提示しやすくなる。

 

これは深く納得できる話で、「うつ病」を未然に防ぎながら、友人とも話せる「楽しい愚痴」になる一つの手段として有効だと思う。

「常に怒りっぽく、近隣住民の騒音や落ちてきた鳥の糞、相手の些細な言動まで大小様々なことに怒りやストレスを感じるのですが、どうすればいいですか?」という質問には「まず全部ひとりごとでもいいから言葉として吐き出す」なのだろうか?

建築学生、他人に分かる言葉で話せよ、ってさ。③

 京都で大学院生活を初めて早1ヶ月だが、ゼミが放置タイプであるため自分なりに文章を書く機会を増やしてみてる。

 

以前の投稿もそうだが、自分の糧となりそうな講義のログ、曲作りやコンペのアイデアも然り即ボムの精神を大事にしてる。

 

そんなことはどうでもいいが、以前より建築学生の言葉の使い方、用法を気にする記事を書いてきた。

 

建築学生の言葉(かなり雑な表現だが)は学問に増資の深い身内で使う分には問題ないし、むしろわからない言葉はGoogle様に頼り、検索する癖をつけた方がよき。

 

他学問の領域まで拡がる建築言語の森を楽しく、自ら探究するべきだし、自らの糧にした方が得である。

 

が、そうでない人にはどうするべきだろうか。

 

①文字と図式など視覚的に理解させること。

②使う言語を体感や感性で分かるもの、学術性より経験的に納得できる言語を注意して選択し、伝えること。

③自分が一方的に話すのではなく、相手側を「傍聴から参加している人へ仕向ける工夫」が大事。

 

前回と少しニュアンスが違うようにみえるが、ほぼ同義である。最後の問題は「話し方」である。

 

日本語というものはお互いを理解しあう会話において厄介極まりないなあ、と最近よく思う。

ひどく抽象的であいまいな表現を多用し、相手に誤解を生むような単語が多い。

日本語の良さといえばそうかもしれないが、伝え方のデザインとしてはどうなのだろうか?

自分も多用して情けないが、「多分」や「~のような」(前の学校の師は例えば《森のような建築》といった提案を出すと、「なら森でいいじゃん」というなかなか切れ味が鋭い返しをされたことが記憶に新しい…)、主観なのか客観的なのか分からない文法、言い始めたらきりがない。

最近考えているのが、誤解が生みそうな発言では、英語や中国語のように言い切り及び断定、面倒だが出だしの「私は」など省略してもよさそうなところを言うなど、丁寧に正しく言葉を用いるというのは、「伝え方のデザイン」の以前に、礼節なのかもしれない。

言葉を正しく伝えるというのは、やはり難しいものであるが

「この発言を聞いて中学生だったらどう思うのだろうか?」

というのは常に念頭に置きながら話さなければいけないな、という訓練を繰り返していかなければいけない。

 

少し話がずれるが、「話し方」が上手な人はyoutubeで建築コンペティション関連で検索すると良く出てくる。

例えば卒業設計展で多いが、作品の話の流れから

審査員「この作品ならこういう可能性もあるよね…?どうかな?」

制作者「いや、この作品はこういうコンセプトで作られているので違います。」

 

制作者の気持ちはわかる。しかし作品の可能性を閉ざすのもそうだが審査員の気持ちも離れてしまう発言でもあり、もったいない。聞き手が関心を持ち、会話の中でそれぞれがよいイメージをもった状態で質疑応答を終わらせることも一つの「話し方のデザイン」なのかなと最近思う。

 


第8回 エイブル空間デザインコンペティション 『THE PRESEN』 (5/7)

 

全三回にわたってまとまりのない話をしたが、全体で何となく言いたいことが伝わってくれると、うれしい。

 

 

 

美術の価値とは(20190424 感性学まとめ)

下記の内容は修士課程に含まれる、感性学の講義内容をまとめたものです。また講師の言説を私個人が独自に解釈し、まとめたものなので特定の団体及び個人とは関係が無く、講師が話した言説とは別物であることに注意して下さい。

 

①:偽装と価値(人間のキャラクター)
偽装とはある人間を示す1種のキャラクターである。近年芸能界や科学界では偽装問題が多く取り上げられたが、「結局普段の生活を暮らす人々の誰が困ったか?」で見ると、誰も困らなかった。

 

→無意味な批判であり、キャラクターが嘘でも真でも、見せられた価値自体は変わらない。でも食品の場合、例えば高級な鶏肉を食べている時に、それは安いスーパーの鶏肉と言われて、味が落ちたと言う。それは何故?


②‪α‬:美術品の価値(落語による「はてなの茶碗」から)
はてなの茶碗」における「ぽたぽたと漏れる無価値な茶碗」は、富豪や天皇のサイン、つまり『その作品における背景の物語』で価値がついた。

作家や美術の潮流自体は研究しやすいが、美術品自体の研究は難しい。作品自体を語るのは作品が意味性において空虚であるため、価値を見出すのは難儀である。


美術における作品の価値とは…

美術品の多くのもの自体には価値がない。価値がつく場合は、美術史との結びつき(歴史への投機的作品)が生まれた時点である。


‪②β‬:哲学・科学・美術における歴史
近代の歴史とは、単に事象の羅列ではなく、事象が起こった理由を客観的にロジカルに説明可能にすること。→「物語性」

 

科学史→技術に伴った進歩がある歴史

 

哲学史→理論のベクトルは変わるが、技術的発展がないため、『進歩』がない。

 

美術史→理論のベクトルは変わるが、技術的発展がないため、『進歩』がない。


アール・ブリュットは美術的訓練を受けている人ではなく、美術史を踏まえたうえで作品を制作していない人々を指した方が正確である。


美術史は19世紀のイギリスから端を発し、西ヨーロッパのモデルを参考にしている。また日本美術は何かをつくる事には熱心だが、何かの賞を定める事には無関心に見える。


‪③:つくる美術品に歴史や評価を内在させるということ
美術品は歴史・物語や外部からの評価を内在させることで、初めてその作品に価値が見いだせる。

 

ある意味、現在最先端の美術というためには、歴史的背景を作品自体に射程をもたせる。目に見えない、内在している歴史的テキストにこそ価値があり、ただつくることに徹した態度をやめるべきである。

建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。②

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約束の時間に遅れるやつの5割は留年している。
一日遅れですが、どうも芋焼酎です。
 
さて話は前回に引き続き、塾のアルバイトで考えることになった、他人に対してどう伝えるとより深く伝えられるか?「伝え方問題」の話。
 
ではこの1年で私なりにこの塾での経験を活かしてどのような結論に達したか。以前塾長に送ったメールをほぼ改変なしで。
 

建築学生、他人に分かる言葉で話せ、だってよ。①

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毎度のことですが、お久しぶりです。3月で大学を卒業して、4月から京都の大学で大学院生になります。それを卒業したら、遂に25歳。こわ。もうみんなブラック企業の話が酒のつまみ。

 

学生の最後というものをすでに高専の時と、大学の時で2回見届けることになったが皆懲役40年が始まるから、あたかも最後かのように旅行で友人との思い出を作っていく姿が2回とも印象的だったかなと。

なんか海外旅行とか友達と遊べるのも学生じゃないとできへんぞ!みたいな意見をよく聞くけど、いまどき自分のジョブ次第で変わりそうだし、ほんまに最後なんかなぁという疑問ともやもやがこのブログの筆を進めるきっかけにもなる。『もやもや』がブログを書く時のガソリン。

 

特に何かに追われていた訳でもないですが、ブログさぼりがちですね。はい。

 

ここ最近で変わったことといえば、設計事務所以外でバイトをしたことで自分の発言を見直すきっかけが見つかったこと。

 

去年の4月から始めたのが、ほぼほぼ個人経営の塾のバイト。小学生から中学生向けに先生:学生=1人︰2人で1時間教えるといった場所でしたね。初めの1ヶ月はほんとに大変。

 

何が大変かというと、生徒に教えたいことや間違っているところを伝えたくても、全く伝わらないし、伝わってるかどうかもわからん。俺も生徒もお互い「🤔」が頭の上に浮かぶ。この自分と生徒の間で互いに伝わらない問題を自分の中で、「伝え方問題」として1年間考えることになる。

 

話が少し脱線すると、塾の生徒がよく言う事として、(数学において)「答えに載っている解説が『全て正しい』よね。だから先生が言う『こっちのやり方の方が早くていいよ』は習ったやりかたじゃないから分からないし、難しそう」

 

この考え方をしてしまう生徒が結構多くて、恐ろしいウイルスに侵されてるなと…。原因を探ってみると根深い問題であることが分かった。

 

問題の原因を整理すると以下のようになる。(特に中学生の数学に言えることに今回は絞る)

 

①学校で教えてもらったことを「手順」のように覚えてやり方だけ理解する。そうすると問題文を読まなくても数字と部分的な言葉で解けてしまう

→「入試問題で二次方程式の文章問題を見た時に、一次方程式か二次方程式のどちらで解けばいいか分からなくなる」

 

②以前習った単元の内容と現在習っている単元を切断して考えてしまうため、理解に時間がかかるor全く解けない

→「二次関数の問題を解く時に、連立方程式などを繋げて考えれないため(2つの座標を求める→二つの式が出てくる→どうすれば解ける?)、思考が止まる」

 

③そもそも問題が何を言っているかわからん

→国語能力及び読解力

 

つまるところ全て3番に帰結する、簡単に言ってしまえばこうだ。

『(文の最後にこの問題を方程式で求めよ、みたいな求め方が隠されてしまうと)何を求められているかすら分からなくなる』

という他人ごとではない病。

 

この問題、子供だけではなく大人でも多くの人に言えるし、教育の話や社会の問題にも繋げれるけど、その話は後にして、今回は私にも問題があったという話。

 

実際自分が7年から8年程度、早い段階て建築や言い回しが複雑な本を読んだり、学んだことで変な癖がついたというのもあるのかもしれない…。

 

この話、塾長にもわざわざメールでぶつけてみるほど自分の中で溜まっていたもやもやなのかも…。

 

次回はそのメールの内容を基本編集なしで投稿して、③くらいで終結予定。自戒の念をこめて金曜までには書く。

お久しぶりです

お久しぶりです。当初は週一で更新するとか言っていましたが、まる1年以上、なんならまともな記事のものだとまる2年近く放置していましたね。誰も見てないからいいやという気はしてましたが…(笑)。

 

さて、卒業設計を終え工業高等専門学校を卒業しました。後に環境科学部建築学科に編入学し、今はめでたく4回生です。

 

この学校では前期後期に分けて卒業研究があり、前期は統一で論文(梗概2枚だけでも可だから実質ザル)、後期は本格的な論文or卒業制作になります。

ので今は前期は終わり(うちのゼミは何故か来週の頭に少し厚めの論文を提出…)、夏期休暇です。否が応でも受験(大学院進学希望)と卒業研究・制作が迫ってきます。とてもデジャブですね。

 

ということで、またすこしずつこのブログも動き始めます。よろしくです。